Curriculum vitae

 履歴書というものは、好きではない。日常生活で、出逢った人たちに、年齢、出身校、職業、現在のポジション――ポジション…。ちょっと微妙な書き方だ。女性に聞く場合は、既婚かどうかということだろう――などにはあまり興味もないし、不思議に聞かれたことがない。それはとても居心地の良い関係でもある。人と触れ合う時に先入観があるとろくなことはない。個人的なお付き合いで、私自身、親しくしている人でも知らないことが多い。年齢、学歴、職業は、ほんの目安にしかならいと思っている。会議の席などで、あるいはパーティで、元なになにです。私はだれだれの妻ですなどと聞くと、妙な気分になる。私の目の前に居る人を、自分の目で見るだけで充分だわ…、としか、私の頭にないからだと思っている。私は、よく「何をしている人ですか?」と聞かれることがある。一番顕著な場は美容室。私は逆に「何だと思いますか?」と尋ねてみる。「ジュエリーデザイナー」「お店の経営者」「アートをしている人」などさまざま。近い職業を当てた人はいない。それくらい、一瞬で見るのはむずかしいものだ。ジュエリーデザイナーは、たまたま私が洒落た指輪をしていたからであり、お店の経営者は、夕暮れに行った時である。そんなことはどうでもいいので、「そうかもしれません」と笑って他愛なく答えるだけだ。何にでもなれるのが人だと思っている。でも、主婦でしょうと言われたことがない。これは遺憾なことかもしれない。
 履歴を書かねばならないなら、ちょっとだけ文章にしてみたいと思う。趣味のことや、自分の興味のあることなど…。歩んで来た道は、確かに今の自分に続いているわけだから影響していないとは言えない。それなりに学んできて、そこから派生した道があるだろう。   
 私は寺の一人娘に生まれた。両親の年齢からするととても遅い子だ。祖父の代からお寺であり、祖父は、私は生まれた時には他界していた。短歌を書いていたらしい。本当は歌人になりたかったらしいと祖母から聞いた。母も一人娘であり、父は養子で僧侶。父はひょうひょうとした人だった。京都の大学でインド哲学を学んだそうだ。いつも読書や書き物をしていたが、私には進学の時も何も言わない人だった。いわゆる放任主義。私の高校時代も「勉強はどうなっているんだ?」と言われたことが一度もない。進路指導の先生が父に「このままでは大学はちょっと無理ですよ」と言われても、父は「そうですか。勉強はしたくないということなんでしょう。本人が気がつくまで仕方ないですね。本気になるときが来るでしょう。すべては本人持ちですから」とそれだけだったらしい。先生から聞いた話だ。今考えると怖い話だ。しかし、小学生の時に、ヘルマンヘッセの「車輪の下」の文庫本を「読んで見るかい?」と渡した。それも今思うと、笑える。私は夢中になって読んだ。最初は、外国物の文学ばっかり父から渡されていた気がする。母も同じく、私に「勉強しなさい」と言ったことがない。いつも母が傍に居ないと夜も昼も開けない。そのくらい母が好きだった。母が他界した今でも、目を瞑ると母の女性らしい仕草や、母のにおいを思い浮かべることが多い。母は父とは再婚で、初婚の夫は、ガダルカナルで戦死したと聞く。寺の本堂にハンサムで素敵な軍服姿の写真が飾ってあった。いつも父に「この人だれ?」と、小学生の頃に聞いていたからだと思うが、父は中学生の時に母の最初の旦那様だと教えてくれた。その時の感覚は今でも覚えている。今で言う、「ビンゴ」と思った。なぜ「ビンゴ」なのだろうか…、これを書きながらふと手が止まった。母から聞いたのは、高校一年生の時。その時、私の心の中に何か違う風が吹いて来たのかもしれないと今は思っている。人の気持ちの中に潜んでいる声にならないもの。悲しみと単純に言っていいのかは疑問だが、その悲しみの種によって、人は何かを生んでいくのだな…と感じた。父と母、そして母の心の底。もちろん父の心の底。日常の微風のように感じられたことに感謝している。私はやんちゃで、有り得ないことかもしれないが、30歳の頃ぐらいまで、オープンに父母と友人のように気持ちを打ち明けていて、避雷針の役目をしてくれた。他者との関わり、その他、考えていることもすべて。隠し事はまるでなかった。どんなに酷いことがあっても両親が私の支えになった。父はとても前向きな人で、物事に対して楽観的であり、客観的であった。父は、「どれもこれも肥やしです」と言う。私としては嘆き悲しんでいるわけだが、泣き止まざるをえないようなひょうきんな物言いだった。母も同じく、度胸が据わっている人だった。私がくだらないことを言うと「例え、人間に理解されなくても仏さまに嘘さえつかなければいいのです。人は誰のものでもない」と。人は誰のものではないという言葉が今の私にしっかり根付いている。これを説明すると、いろんなことを書かなければならなくなる。しかし、とにかく、この世の言葉で表すと、「人は誰のものでもない」ということになるのだと思う。

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――さて、その他の履歴書となれば、色合いがないものになってしまう。
 大学の専攻は、文学部社会学科。その後出版社に就職。それからカナダとアメリカに留学。英語で暮らした長い年月があり、日常会話は、ちょっとブラッシュアップをすればすぐに取り戻せる状態。ちょくちょく行った国は、主にパリとモロッコ。日本で住んだ場所は、長崎、横浜、横須賀、東京、沖縄、米国オレゴン、カナダ・ヴァンクーバー、福岡、佐賀、大阪。高校から家を離れた。佐賀は私のふるさとであり、父母との思い出が詰まった大切な場所であり、いつも心の中にしっかりと納まっている。
 1983、ひょんなことから「書いてみない?」と言われ、雑誌にエッセイを書かせてもらい、それから続いている。その雑誌に22年も書かせて頂いた。何かをするようになるのは、切切と願って成るのではなく、私の中では、ひょんなことから成るのかもしれない。…そう思っている。1988年にエッセイを西日本新聞で連載させて頂いた。
 新聞に書くようになったのは、これが初めてで、それから佐賀新聞、毎日新聞とご縁を頂いた。
 現在も雑誌と新聞のご縁は続いていてありがたく思っている。
 すべてが何でそうなったかというと「やってみないか?」から、始ったと覚えている。その後も最初は、6か月という約束だったが、佐賀FMの「笠原瑠璃子の週末はざっくばらん」という番組を、13年も続けさせて頂いた。その前にNHKの「おはよう九州」と、有線放送にもご縁があった。かたわら、スチュワーデス学院、ESL英語学院、九州イングリッシュで英語を指導。佐賀短大非常勤講師も務めさせて頂いた。教えることから学んだことは沢山あった。今でも英語の個人教師は続けている。最近は、対談ものを書くことが多い。取材に行くことが楽しい。
 趣味は、あってないようなものだが、特に、音楽とスポーツと言える。音楽は聴くのも好きだし、楽器も少しやる。
 ピアノ、エレクトーン、ヴァイオリン、フルート。最近は、楽器が可哀想な気もする。また時間があるときに夢中になりたい。ジャンルは、クラシック音楽ではラフマニノフが一番好きで、オペラもジャズもポップスもシャンソンも、なんでも好きだ。スポーツはいろいろやったが、水泳が一番体に合っているようで、今でも時間があれば、四種目泳ぐ。毎日行くことができればストレスも吹き飛ぶが、なかなかそうもいかない。読書は、本に本当に失礼だが、寝転がって読むことが多い。好きな作家は、アルベール・カミュ、ショーペン・ハウワー、ニーチェ、キルケゴール、マルティン・ブーバー、村上春樹、塩野七生、哲学書、仏教書、その他いろいろある。
 最後に性格は、ストレート。いつも物事に対して本気でいたいと思っている。ストレートな物言いをいつもしたいと思っている。だけど、最近そうもいかないのだとやっと分かるようになってきた。遅すぎる。本当のことを言いたくてうずうずする時に、もう一人の私が「もうやめなさいよ」と囁いてくれることがありがたいことかもしれない。家族は、両親とも他界して血縁は少ない。現在は、一人暮らし。息子が一人いる。私の父に似て、ひょうひょうとしているので、大変なことも「大変ではないよ」と諭されていることが常。情けない母だ。息子とは完全にストレート。あけすけで隠し事なし。息子は、たぶん私に言わないこともあるのだろう。私よりクールだと思う。ただ、来世、万が一、またこの世に生まれることが許されるなら、今世での数々の失敗の記憶を覚えておいて、違う人生を歩みたいと思っている。

ざっくばらんな履歴書◆2011年11月30日・記

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