My view of life

 人生感というと、とても堅苦しい感じがするが、誰しも生き方のスタンスというものをもっているのではないかと思う。スタンスでなければ、癖のようなもの。
 私は、基本的には常に無邪気でいたいと思っている。無邪気という言葉は、なんとなく使う言葉なのだが、邪気を持たないということなので、生きる上でとても大切なものだ。
 無邪気にいるというのは、いろんなことを抑えなければならない。いろんなことというのは、人は五感をもっている。五感は肉体に宿っているものである。肉体がなければ、いわゆる、魂だけになるということだと思っている。そして、魂には、欲は宿っていない。
 生れ落ちたばかりの赤ちゃんは、幸福そのものだ。
 日常には、いろんな刺激があり、その刺激によって、自分の気持ちが左右されることが多い。良き刺激もあれば、悪い刺激もある。悪い刺激とは、「み」の付くものが多い。妬み、嫉み、憎しみ、ひがみ――
 日常生活で、常に平常心を保つことは、とてもむずかしい。その気持ちのアップダウンを失くすためには、やはり【無邪気】というものが必要になる。
 たいてい、人は人に求めていることが多い。しかし、それはとても不安定なことが多く、空の雲のごとく、変化している。私も同時にそうであり、相手は、究極的に関係ないというぐらい強い意志を持っていないと、相手に求めすぎて、相手を責めたりすることになる。
 私は、一度だけだが「これは、とても私が信頼している人だったから、一度だけと書く」
完全に無視されたことがある。その出来事は、私にとって深く考えさせられ、今になると、とてもいい出来事だったと言える。関係上の深さにより無視は黙殺に似て、完全に存在を拒否するということになると感じた。単に無視がいけないものというものでなく、そのことによって私は長い間それが何であったのかを考えた。そこから学んだものは、やはり向き合うことの意味合いだ。説得することの虚しさ。来るもの拒まず、去るもの追わずということの意味合いは深い。相手に求めるということは極力避けたい。自分がどうであるかということを考えていたほうが確実だ。そこに相手が居るというスタンスが最も居心地が良い。人間関係のからみの中に家庭生活、仕事関係、恋愛などいろいろあるが、要は、自分がどうであるかということしかない。自分の中でそれをどう収めるかということに注目したい。悪意に対しては悪い刺激なので、冷淡になる必要もある。冷酷ではなく冷淡。冷淡と冷酷はまったく違う意味がある。冷淡は、夢中にならないということだ。相手がどう考えようとどうしようと、自分の中にとりこんで処理していく能力が必要になる。この世は本当に刹那だ。刹那というのは魂の旅する時間から見た、現世の時間のことで、仏教界の言葉と思っている。肉体には五感がくっついているが、目を瞑り、耳をふさぎという具合に五感を閉じてしまえば、自分の居る世界が消える。
 この人生の中で過去は脈々と自分の未来に続いてはいるが、現世という意味では、戻ってこない時間であり、未来は三秒先も分からない。だから今を生きるという言葉は私にとって大事なスタンスである。もう一つ、これは私の理想だが、【孤高】ということである。孤独とは違う、【孤高】。美しくあるために。なかなかできるものではないが、これは私の美意識の中で崇拝するものでもある。

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